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労働力か労働者か

日本留学から大学生活、日本就職まで、言語面で 専門的な徹底支援をする日本語のタネです。

 

「Wir riefen Arbeitskräfte, und es kamen Menschen」 (我々は労働力を呼んだ、すると来たのは人間たちだった) ―マックス・フリッシュ(Max Frisch)、1965年

ニュースやSNSを通じて、日本社会における外国人労働者との共生を巡る議論を目にすることが増えました。中には、互いの生活習慣の違いや将来への不安から、排外的な感情が言葉となって表出している場面も見受けられ、深く懸念を覚えています。

 

少子化と労働人口の減少により外国人材に頼らざるを得ない状況が生まれ、その流れの中で排外主義が台頭するのは、ある意味、起こるべくして起こったことかもしれません。しかし、こうした摩擦が生じている現状を、個人の感情の問題として片付けるのではなく、その背景にある社会的な構造に目を向ける必要があります。

 

1.「労働力」という数字の裏にある「生きた人間」

 育成就労・特定技能の外国人材について、私たちはこれまで、「不足した労働力を補うためのリソース」として、あるいは統計上の「数字」としてのみで捉えてはいなかったでしょうか。

 

制度が十分に整わないまま受け入れが急速に進んだことで、現場ではコミュニケーションの不全や文化的な摩擦が生じました。受け入れる側も、やってくる側も、互いに心の準備や環境の整備が追いつかなかった。その「制度の歪み」が引き起こした結果とも言えます。

 

2.排外主義の根底にあるもの

 一部で見られる排外的な言説。その根底にあるのは、単なる悪意ではなく、自分たちの生活基盤が揺らぐことへの「不安」や、変わりゆく環境への「戸惑い」であることも少なくありません。身近に経験したことだからこそ感じる、切実な恐れや不安があることも確かです。

 

しかし、その矛先を、同じ地域で暮らし、共に産業を支えている隣人に向けることは、根本的な解決にはつながりません。本来、私たちが向き合うべきは、特定の誰かではなく、「人間が人間として、尊厳を持って暮らすための仕組み」が不足しているという事実です。

 

仕事が終われば、彼らにも帰るべき家があり、家族があり、夢や悩みがあります。将来に不安を感じ、喜びや悲しみを抱き、平穏な明日を願う――私たちと同じ、一人の「生きた人間」なのです。

 

3.今、欠けている視点

私は、外国人材にともに日本社会を支える市民となってほしいと考えています。

 

そのためには、言語教育の支援、行政サービスの多言語化、そして何より、不当な労働条件を排除し適正な権利が守られる仕組みを構築することが不可欠です。これらは、地域社会の治安と安定を維持するためにも欠かせないインフラです。

 

一方で、迎える側の日本人もまた、外国人材を「人材不足を一時的に補う方便」としてではなく、日本社会のメンバーとして見る視点を持つことが求められます。

「顔の見える隣人」としての関係を築くことこそが、根拠のない不安や偏見を解消していく道ではないでしょうか。

 

4.持続可能な社会の形

 日本は今、大きな転換期を迎えています。多様な背景を持つ人々が、それぞれの能力を発揮し、互いに補い合いながら生きていく社会。それは決して理想論ではなく、この国が持続していくための現実的な選択肢です。

異なる文化や価値観がぶつかり合うとき、摩擦が生じるのは自然なことです。しかし「異なる」ことをネガティブに捉えるのではなく、新しい創造の機会として向き合いたいのです。

 

日本社会が整えるべき課題は多く、早急な対応が求められます。それでも、隣人に対して敵対するのではなく、ともに日本社会を支えるメンバーとして捉え、対話を持ち続けること――それがこれからの日本をつくっていく力になると、私は信じています。

 

#共生社会 #人材不足 #外国人材 #言語教育 #社会統合

 

外国人問題については、外国人を同じ市民として見る視点が必要
外国人問題については、外国人を同じ市民として見る視点が必要